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ニュースにならない死

11月13日。朝日新聞一面ではなかったが、ピーター・ドラッガ-が亡くなったことが報じられていた。ドラッガ-ほど有名でなくても、新聞には毎日著名人についての「おくやみ」が掲載されている。

新聞の地方版にも、1日置きのように「おくやみ欄」がある。例えば11月11日の新聞には9日に亡くなられた岩手県民11名の住所と名前が、ひっそりとページの左下に記載されていた。

記録の残り方は、「名」だけでなく「数」としても可能だ。
「数」にすると、死は「警告」や「事件の規模」の意味を持つ。

通勤途中にあった、学習院向かいの豊島区警察所(もしくはその隣の交番?)。毎日「今日の都内の死者X名。交通事故X件」と看板が出ていた。

バングラデシュの地震でも、推定でありながら死者「数」は広く認知されている。

いずれにせよ、こうして死は世に「知られる」ことになる。
そして、世の中には「知られるニーズのある死」と、「知られるニーズの無い死」が存在している。

アフガンにいた時、現地にいたにも関わらず、私は「現地NGO職員が誘拐、処刑された」と人から聞かなければ、知らずに過ごしていたに違いない。
スーダンでもある欧米系NGOの現地スタッフ3名が車ごと連れ去られて数週間経つ。担当者は「身代金目当ての誘拐なのか、脅迫なのか、人目当てなのか車目当てなのか全く情報がないからマスコミ対応が難しい。行方不明としか言い様がない」と言っていた。

外国人スタッフだったら、誘拐でもすぐにニュースになる。けれど現地スタッフは、死んだとしても、ニュースにならない。身重な妻が残されても、ニュースにはならない。

スペースがない。ニーズがない。理由はあるだろう。
ただ、ここはそんな世界だ。


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